あの大手コンビニチェーンが植物繊維市場に参入
談合しない植物繊維
で、 都内台東区浅草寺の宝蔵門について記述した。画像の右が拝殿で真ん中にそびえているのが五重塔、その左に構えて居るのがその宝蔵門だ。普通にはなかなか撮れない構図であるが、とあるビルの屋上に上って撮影した。いい眺めだ、雄大な建築物と人間の喧騒を長時間満喫できた。
画像は門柱の下部を覆う鋳鉄製のカバーだが、前に「川口市内で鋳造されたという説もある」と書いた。かつて、ネット上か書物で見知ってはいたが、出典根拠を失念していたのでそう書いたのだが・・
記事をアップしたところ、製造に関与した方から連絡をいただいた。まず、このカバーの名称は「根巻き」と言うようだ。辞書で調べると、「移植する木の根を菰(こも)、藁(わら)などで包んで保護すること」とあり、本来は造園関連の用語らしいが、なるほど、イメージは同じだ。
頂いたメールによると、この根巻きの木型製作は川口市内の宮内木型さん、鋳造は川口鋳物師の故鈴木文吾だという。では、国立競技場の聖火台の製作についてこう記述した。「設計者は山下誠一、木型製作者は宮内初太郎」、鋳造はもちろん文吾だ。今回頂いたメールの差出人は、宮内初太郎氏の後継の方であった。
メールの添付画像をアップさせて頂くが、何と貴重なショットなのだろう。真ん中にある赤い一片が宮内氏製作の木型だが、同氏が持参し撮影したものだ。この木型1個でどうやって大量の根巻きを鋳造したのだろうか。
宮内氏によると、「木型を何個も作ることは、経費が嵩むため、1個だけ木型を作り、その後アルミで必要な数だけ(今回は円周の半分の数)作りました。これをアルミ型、または金型とも言っていました。
次に半円状態にアルミを組立、それを型として鋳型を作りました。砂から型を取り除くと、勿論のこと鋳型はメス型になります。そこに溶けた溶解湯を流し込み、固まって鋳物の根巻きが出来上がります。」
つまり、この1個の赤い木型を使ってコピーするように、半周分のアルミ型を製作。アルミ型が1個あれば、砂型は何個でも作れるという事だ。浅草寺の本堂や門には沢山の根巻きがあるが、もちろん、アルミ型が複数個あれば、砂型製作時間の短縮になろう。
半周分である理由は、簡単。全周分だと門柱に組み付け出来ないからだし、砂型構造も簡素で済むだろう。こういった事を知り得る、あるいは興味を持つ人がどれだけいるのであろうか。まさに貴重な情報をいただいた訳で、心から感謝申し上げたい。
なお、現状の黒色に塗装された根巻きに磁石は反応しないから、これは、青銅製であろう。想像していた鋳鉄製ではなかったが、アルミ製でもなかろう。アルミ製では、衝撃に弱く傷付き易く、耐用年数に問題があると思われるからだ。
文吾と親交深い、元銀行員にして、山岳写真家の平出眞治氏によれば、この根巻きは、「パナソニックの松下幸之助が寄贈しているが、本人が文吾に直々に依頼しに来た」という逸話がある。文吾との会話の中で聞き取った実話であろう。
ところで、川口市における木型製造業は、明治30年(1897)代に、大工の島崎菊造が専門的に請け負い始めたことに始まるという。当時の近代化の中で、鍋釜などの日用品鋳物から、大型の機械鋳物への変遷過程において、木型業は無くてはならない存在となっていたのだ。
同一形状の鋳物の量産に木型は不可欠であった訳で、菊造は多くの弟子を育て上げ、結果鋳造業界に大いに貢献しているが、木型製造業界の始祖と言えよう。昭和初期の古地図をみると、菊造の工場は、市内金山町の川口神社の西側にあったが、この町の中だけでも15軒ほどの木型屋があったようだ。
話は戻って、「根巻き」といえば、壮大な規模で見事なのが、昭和9年(1934)に竣工した中央区築地の築地本願寺の本堂内部だ。設計は伊東忠太、施行は松井組で、鉄筋コンクリート造りだが、その正面は蓮華をモチーフとしたインドの石窟寺院風のデザインになっている。
奥に大太鼓が見え、たくさんの太い柱が林立している。これはコンクリート製だから、根巻きによって腐敗から根元を保護する必要は無いはずで、あくまでも装飾目的であろう。
磁石につくからこれは鋳鉄製だ。上部の意匠にインド気風を感じ、下の方では、龍が踊っていて、和印折衷だ。竣工後に巻かれたのであろうから、昭和初期の鋳造と思われるが、作者は不明だ。いずれにしても立派と言うべき根巻きで比類ない。
また、長野県長野市元善町の善光寺本堂の柱を囲っている根巻きも見応えがある。ここは、日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来を本尊とし、「一生に一度は善光寺詣り」とか、「牛に引かれて善光寺参り」で知られる寺だ。
青銅製の根巻きには、向き合った獅子が陽鋳されている。木製の柱の腐食防止と同時に、魔除けや入口の守護という意味合いもありそうだが、これが堂宇のぐるりで見られる。
それぞれの真裏には寄進者名があり、「原型彫刻者 従五位勲五等 竹内久一先生」、「鋳造者 上田町 小島大治郎」と陽鋳されている。竹内は、安政4年(1857)生まれで、明治時代を代表する彫刻家だ。小島は代々が勅許鋳物師で、文政11年(1828)の「諸国鋳物師名寄記」にもその名が記載されているが、信濃国上田の地では鍋釜を商い、「鍋大」として知られたという。
さて今回見ていくのは、鋳造された羽釜だが、過去にもこれを天水桶などとして使用している寺社は見てきた。まずは、大江戸線東中野駅にほど近い中野区上高田の正見寺だが、応永年間(1394~)の建立という。
ここには、笠森お仙の墓がある。台東区谷中の笠森稲荷前にあった水茶屋「鍵屋」の看板娘で、宝暦元年(1751~1827没)の生まれだが、浅草寺奥山の楊枝屋「柳屋」のお藤、二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」のお好と共に、明和(1764~)の三美人と呼ばれた。
一方、お仙ゆかりの寺として知られるのは、明治中期に開創されたという台東区谷中の功徳林寺だ。しかし、境内にある画像の笠森稲荷堂は、明治40(1907)頃建てられたもので、お仙とは深い因縁はないようだ。稲荷信仰と混同されて習合された吒枳尼天(だきにてん)を勧請しているのも不可思議だ。
さらに、堂宇前の手水鉢には、「御宝前 元文4年(1739)」と刻まれているのもおかしい。お仙の誕生前であるし、寺の開創前でもあ
る。全くの紛い物だ。水茶屋「鍵屋」は、かつてこの近辺にありましたよという、記念碑的な堂宇なのであろう。
さて、天水桶として、本殿の両側に大きな2基の羽釜が据えられているが、本殿の青色とのバランスもいい。大きさは、5尺ほどだ。
表面に鋳出されている、「山笠にサ」のこの社章は、どこの会社であろうか。すぐ思いつくのは「ヤマサ醤油()」であったが、サイトを訪問してみるとどうも違うようだ。似たような社章も見つかったが、特定できない。羽釜は調理器具であるから、食品加工系の会社の物であろう、お役御免となって寄贈されたに違いあるまい。()
「甲州ほうとう鍋」を売りにして10店舗を展開する、山梨県甲府市貢川の小作さんの店前に羽釜がある。ホムペによれば、『甲州ほうとうは、数多くの野菜類、カボチャ、じゃが芋、里芋、白菜、ねぎ、ごぼう、にんじん、しいたけ等の植物繊維が豊富に含まれており、美容健康食にはもちろん、ガンの予防食としても最適の食品です。
禅僧の手により中国から日本にもたらされた「饂飩(はくたく・はうたう)」が語源と言われ、武田信玄が野戦食として用いたことから甲州地方に広く根付いたと言われています。「ほうとう」はいわば、山梨の誇りともいえる郷土料理であり、その味の中に甲州の長い歴史が息づいています』という。
口径1.5m、5尺ほどの大きな羽釜だが、かつてはこれで食材を煮ていたのだろう。今は現役を引退して、客寄せ用としてだろうか、外に置かれているが、店の歴史を黙して伝える貴重なモニュメントとなっている。
画像は、同じく甲州市塩山小屋敷の、恵林寺()の三門だ。永禄7年(1564)、戦国武将の武田信玄はここを菩提寺と定めている。この門は、快川(かいせん)国師が、織田軍の兵火で焼き討ちを受けた際、「安禅必ずしも山水を須(もち)いず、心頭滅却すれば火自(ひおのずから)涼し」と唱えて火定した場所に建っている(掲示板より)。
開山した夢窓国師が築庭した史跡庭園への入り口に、かつての大庫裡(厨房)がある。今は受付となっているが、ここに竈(かまど)があって、3個の鋳鉄製の羽釜が往時のまま置かれている。
2尺強の羽釜にメーカー名が、凸に陽鋳されている。「三州」とあるのは地名で、現在の愛知県東半部を意味するが、参州とも表記されるようだ。鍵かっこに「九」の文字があり、これは社章であろうが、詳細は判らない。
甲府の流れなので逸れるが、甲府駅前に、高さ3m、重量は5トンという、巨大な武田信玄の銅像がある。像は川中島の戦いの様子で、右手に軍配を持ち、床几にどっかりと腰をおろしている。完成は、昭和44年(1969)4月12日であったが、この日は、信玄の命日だ。
像の彫刻師は、日展評議員であった宮地寅彦氏、鋳造は、「岡宮美術鋳造研究所 所長 岡宮紀秀」と刻まれている。今も川口市東領家で営業する、(株) 岡宮美術さんだ。日本を代表する彫刻家の鋳造に長年携わり、国内外で多くの作品を手がけている。
昭和54年刊行の、毎日新聞浦和支局編の「キューポラの街」では、当時の川口を代表する13人の鋳物師を、50ページにわたって紹介している。その中で、数少なくなった美術鋳物のエキスパートとして、「岡宮正明」氏の名が挙がっている。同家は、高知県土佐清水市のジョン万次郎像や、川口駅前にある「働く歓び()」像などを手掛けている。
さて、群馬県片品村の国道120号線沿いで営業するうどん屋の前にも、巨大な羽釜があった。この国道は、栃木県日光市から群馬県沼田市に至るが、日本ロマンチック街道の一部でもある。
使用感のある釜だ、今は現役を引退し、来客を歓迎すべく入口に鎮座しているが、作者を示す様な鋳出し文字は見られない。
同じく利根郡川場村にある永井酒造(株)の入り口にも羽釜がある。創業明治19年(1886)の造り酒屋で、「谷川岳」、「水芭蕉」などの銘柄で高名だ。使用される仕込み水は、尾瀬連峰・武尊山(ほたかさん)2.158mの伏流水で、ここで自由に試飲できる。
酒造りの工程で使用されていたに違いなかろう釜が「酒ギャラリー」の入口に置かれているが、同社の歴史を物語っていよう。
この釜を鋳造したメーカー名が鋳出されていた。画像は90度回転させたが、横書きで「三州 山に十」と読める。位置は、白く塗られた羽の上側ではなく下側で、かまどに置くと見えなくなるであろう場所だ。
「山に十」の社章は、豊川市金屋町で鍋釜を専門に鋳造している創業480年の、中尾工業(株)だ。ホムペによると、1538年というから天文7年の創業だが、時は室町、将軍は第12代足利義晴の時代であった。戦国時代真っ只中ではないか。
「我が国の勅許御鋳物師のすべてが名乗るように、当社社長の先祖は河内国丹南群出身と家伝記に伝わるが、もっとも確実な資料によれば、助九郎の代、天文7年に時の牛窪城主から三河国東部の鋳物の許状を得たことに、当社の歴史は始まる。(続群書類従所載)
1804年、文化、文政年間頃から、我が国最大の金物問屋ヤマ富商店と大阪以西の一手売捌契約をし、海運の便により、醸造用大釜、その他の鍋釜を大量に輸送した。これが世に言う三州釜の起こりである」という。
社章は、この金物問屋、「ヤマ富」に由来しているのかも知れない。脈々と歴史を受け継ぐ同社の一品に触れ合えて感無量だ。
さらに、川場村門前にある清龍山吉祥寺を訪ねてみた。暦応2年(1339)に中巌円月禅師が開山した、鎌倉建長寺を本山とする臨済宗の禅寺だ。拝観料は¥500だが、雪景色も手伝ってか、実に見応えのある寺であった。
山門は入母屋造りで村の重文だが、楼上の額は、鎌倉時代の後光厳(ごこうがん)天皇による勅額だ。楼上には中央に文殊菩薩が配され、左右に釈迦如来の高弟である16羅漢が安置されている。
登壇できたので近くで拝見したが、羅漢はそれぞれ木造で、いずれも等身よりやや小さいが、彫技はまことに秀抜だ。山門再建時の、文化12年(1815)頃の作とされるという。
鐘楼堂には自由に撞ける梵鐘がある。のどかな山間に響きわたる澄んだ音色は、今でも脳裏によみがえる。
「国運永
」、「施主安祥」など多くの願いが込められている。清廉で見目麗しい1口(こう)だ。
鋳物師は富山県高岡市の巨匠・老子次右エ門()で、平成3年9月4日の鋳造であった。
県の重文で、ヒノキの寄木造りのお釈迦様が安置されている釈迦堂前に、奇妙な鋳鉄製の鉢が1基あった。
3本の獅子脚の鉢植えであろうか、香炉であろうか、表面には花の紋様が浮き出ている。多くの鋳境線が見られるが、どことなく中国風の味わいがある。輪っかの取り付け部の装飾は、獅子頭であろうか、実に手が込んでいる。
「永楽14年10月 太平城王○○」とある。永楽は、中国の明代の元号であろうが、1416年で皇帝は第3代成祖であった。日本では、応永23年だが、「太平城うんぬん」は手を尽くしても不明、というか中国語のサイトの判読ができない。
ただ、「応永」という元号を調べていて、面白いことを知った。ウィキペディアにはこうある。『1394年から1427年までの期間を指す。この時代の室町幕府将軍は足利義満、足利義持、足利義量。
日本の元号の中では、昭和、明治に次いで3番目の長さ(35年)であり、一世一元の制導入以前では最長である。また、応永10年から22年までの約10年間は戦乱などが途絶え「応永の平和」と言われる』なるほどだ。
さらに釈迦堂正面には、鋳鉄製の桶1基が置かれていたが、これは天水桶ではなく、今は焼香台のようだ。フタを開けてみると灰が充満していた。
正面には「中嶋」、裏には作者銘として「小島信國作()」と鋳出されているが、鋳造時期は、残念ながら不明。表現されている紋様は、これまた唐風な気風を感じる。少なくとも、東京近郊の寺社前で見かけるデザインではない。
今回、地方へ出てみて色々な鋳造物を見ることができた。これからも、異種なデザインや、見知らぬ鋳物師達との出会いを楽しみに散策を続けようと思う。つづく。
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