生きるための姫路城
訪問日は2018年8月9日です。
洲本城の駐車場に入る前の光景です。
駐車場はこの石垣の上にあります。
道端に立っている標柱には「腰曲輪」と書かれていました。
この道の右手に、案内図があったのでパクリます。
西の丸は描かれていませんが、中心部の構造がとてもよくわかります。
先ほど書いたヘアピンカーブです。
実は、ここが大手門跡だったりします。
内側から見た大手門跡です。
城内へ入る道は、手前の馬屋という曲輪沿いに進んで来ます。
横矢が掛かっている上に、ヘアピンで先が見通せなくなっています。
入口から防御力の高さがハミ出しています
先ほどの石垣の上にあるのが、馬屋という曲輪です。
大手門を入ってすぐなので、ここに馬をつないでいたのでしょうか。
現在は、鉄の馬をつなぐ駐車場となっています。
大手門の所にも、バッチリな案内図があります。
こちらは主要部だけでなく、城全体が描かれています。
範囲が広大なので字が小さいですけど
大手門の所から、石垣脇に石段が付けられています。
この石段は後世になって付けられたように見えますが・・・
石段を上がった所に、食い違い虎口があります
この通路自体は往時からあったものなんですね!
石段を上がると広く開けた場所があり、真ん中に池があります。
縁が石で固められていて、群馬の金山城にあるヤツを思い出します。
石段から右側を見ると土塁があり、その端だけ石垣になっています。
ここに隅櫓があったっぽい感じがします。
東二の門跡です。
ここもいい感じでクネッた食い違い虎口です。
左・右・左と石垣が迫って来る光景がたまりません
東二の門の先には、かなり広大な平坦地があります。
ここが武者溜です。
名前からして、ここに大勢の兵士がいた場所ということでしょうか。
だとすると、長屋のような兵舎がズラッと建ち並んでいたのかも。
端を歩いていると、木の陰で地面が窪んでいるのが見えました。
もしかして、門の跡?
気になると見ずにはいられません!
外から見ると、両脇に石垣があります。
ただ、崩れて門の形になったように見えなくもありません。
ここから外側には、特に道らしきものは見当たりませんでした。
さっきとは別の所に、ちゃんと標示のある門跡がありました。
武者溜の一番奥にある東一の門跡です。
東一の門を外側から見た所です。
普通に石段が入り込んでいて、要害性が感じられません。
ただ、門の建物があったらどうなんだろう?とは思いますけどw
武者溜の外周は、こんな感じで石垣で囲まれています。
内部からは全く見えないので、気が付かないかもしれません。
私、見えちゃったんですw
武者溜の外側の斜面です。
所々こんな感じで凹んでいて、竪堀に見えなくもありません。
こんなのがいくつも並んでいるのですが、畝状竪堀ではないのでしょうか?
東の丸高石垣です。
武者溜からは高さ5メートル程あり、登り口はありません。
登るには、東二の門から入って回り込まなければなりません。
東の丸は内部に小高い所があり、数段に削平されています。
その一番上の段が、石垣で囲まれているのが見えます。
高石垣には、東二の門を通ってその脇から上がれます。
ここは、東の丸二段曲輪の一番高い所にある細長い石垣です。
東の丸二段曲輪です。
とは言っても三段ありますけどw
ここは東の丸の中にある平山城的な感じがします。
周りよりも一回り高く、外周を石垣で固められています。
東の丸の本丸寄りが、八王子木戸の門跡です。
この道を右に進んで門外に出ると、小さなお社が沢山並んでいました。
石垣の一部には、ブルーシートが掛けられていました。
周りの石垣もちょっとガタガタな感じ。
崩れてしまったのでしょうか?
南の丸に入る門跡です。
両脇を石垣で固められ、幅が狭められています。
南の丸に入る門の隣には、南の丸の腰曲輪が見えます。
結構広く、南の丸の石垣も迫っていていい光景です。
門っぽい石垣が見えたので、奥まで進んで見ました。
内側から見ると、石垣は片方しか無いように見えますが・・・
外側から見ると、ちゃんと両脇が石垣で固められています
門跡から見た南の丸隅櫓の石垣です。
高石垣と門と櫓でワンセットだったんでしょうね。
攻め込んだ敵兵は門で足止めされて、上の隅櫓から狙い撃ち。
そんな光景が目に浮かびます。
南の丸内部の様子です。
本丸のすぐ下にあり、二の丸的な感じがします。
左の一段高くなった所に御殿などがあったのでしょうか?
南の丸の端は、高さ1メートル程の石塁で囲まれています。
南の丸から見た本丸の高石垣です。
石垣の反りがたまらなく美しいです
南の丸から西へ進むと、本丸の石垣にそってカギ型に曲がります。
真上から見ると、きっと巨大な食い違いなんでしょうね!
搦手門跡です。
洲本城は、門跡がよく残っています。
搦手門の脇から本丸に上がる石段です。
搦手だというのに、かなり堂々としていますw
往時は建物などで隠していたりしたのでしょうか?
搦手門から少し西の丸側へ進んで振り返った光景です。
右側に見える石垣は、南の丸と籾蔵の間にある曲輪のものです。
名前のわからないこの曲輪には、三熊梅園があります。
真夏なので、梅の木もただの木ですけど
西門跡です。
洲本城の門は、ほとんどが食い違い虎口です。
それが石垣で構築されているのが、とても魅力的です
西の丸へつながる道です。
両脇が低くなっており、細長い稜線なのか、土橋状の加工なのか・・・
途中に1つも堀切が無いのが、ちょっと興味深かったりします。
西の丸の手前にある「残念石」です。
名前が面白いので近づいても、通路側から見たらただの大きな石でした。
しかし、裏に回ってみると、十文字に楔を打った跡が。
石垣になり損ねたというのが、その名の由来なのでしょうか?
西の丸の入口はこんな感じですが、8割方は雑木林になっています。
ただ、下草はほぼ全くと言っていい程無いので、とても歩きやすいです。
外周が段差になっているので近づくと、縁に石が並んでいます。
これは、この下が石垣になっているというサイン
別の場所から下りると、こんな石垣で囲まれています。
内側を歩いていると気が付かないんですけどね・・・
訪ねる人が少ない、超穴場スポットだと思います。
西の丸から戻って来て、先ほどの石段を登った所です。
本丸西側の石垣に沿って進むと、模擬天守が見えて来ました!
本丸搦手門跡です。
これだけの石垣がしっかり残ってる所って、かなり貴重ですね
城全体の石垣が、ほぼ原形を留めています。
続~じゃなくて、日本100名城で選ばれなかったのが不思議です。
本丸の端に積まれた石垣です。
囲まれている風景で心落ち着くのが、城キチという生命体ですw
本丸内部から見た模擬天守です。
これは昭和3年に建てられた、日本最古の模擬天守です。
デザインは弘前城の天守を真似したのでしょうか?
石垣上から見た模擬天守です。
足元がちょっと、いや、かなり気にはなりますが・・・
足元を見なければ、それなりに風情がありますw
模擬天守前の石垣上から見える風景です。
洲本の港や街並みがバッチリです
本丸虎口です。
右も左も真正面も石垣な光景にウットリします
本丸虎口の下にある大石段です。
段差が高く不揃いで、駆け足で登りづらいのが本物です。
ちょっと整い過ぎている部類ではありますが。
続いて、続~スタンプを求めて淡路文化史料館へ。
ここは目の前にお堀と石垣があり、まるでお城の跡のよう。
隣とその隣も同様で、すごい凝ってるなぁなんて思いました。
それでそのまま特に何も思わずスタンプもらって退散。
史料館前にあった説明板の写真を今見て、やってもうた・・・
実はここ、下の城ということで、江戸時代にお城だった場所でした。
せめて「あぁ、城っぽいな~」なんて1枚だけでも撮っておけば良かった
続日本100名城スタンプ設置場所
洲本市立淡路文化史料館 開館時間 9時~17時(入館は16時半まで) 休館日 月曜日、祝日の翌日 12月28日~1月4日 ※金曜日又は土曜日が祝日の場合、月・火曜日休館 ※月曜日が振替休日の場合、火・水曜日休館 入館料 大人400円、高・大学生250円、小・中学生100円 |
◆歴史◆
1526年、安宅治興により築かれました。
安宅氏は紀伊出身の土豪で、熊野水軍を率いていました。
室町時代初期には将軍・足利義詮から海賊討伐を命じられていました。
細川氏の水軍を率いていたことから、淡路島にも拠点があったようです。
安宅治興がどのような人物だったのか、サッパリわからず・・・
畿内で主を凌ぐ勢力を得ていた三好長慶が、弟を安宅治興の養子にします。
その養子が安宅冬康で、兄に従って淡路の兵を率いて活躍しました。
1564年、城主・安宅冬康が兄・三好長慶に殺されました。
1561年に十河一存、1562年に三好実休など、兄弟が相次いで戦死。
1563年には三好長慶の嫡男・義興が病死し、三好家では不幸が続きました。
1564年、三好長慶は弟の安宅冬康を居城・飯盛山城に呼び出しました。
そこで理由は不明ですが、自害させています。
安宅家はその嫡男・安宅信康が継ぎました。
当時、三好長慶は重度の鬱病で、正常な判断が出来なかったようです。
そんな折に人柄温厚で信望の厚い安宅冬康に対する讒言がありました。
色んな史料で書かれていますが、その「誰」をみんなボカしています。
三好長慶は弟の死後にその無実を知り、さらに病が悪化します。
それから約2か月後、三好長慶自身も病死してしまいました。
三好家は以後、三好三人衆、三好長慶の養子・義継と松永久秀が争います。
1583年、仙石久秀が城主になりました。
安宅信康は1578年に病死するまで織田信長に臣従していました。
しかし、その後を継いだ安宅清康は、毛利輝元に味方するようになりました。
そのため1581年に織田軍に攻められ、領地を没収されて紀伊に追放されました。
淡路には羽柴秀吉に従って数々の戦功を挙げていた仙石久秀が入りました。
仙石久秀はこの頃織田信長と敵対した長宗我部元親と戦います。
はじめは讃岐に入り、順調に十河存保を助けていましたが・・・
1582年に本能寺の変があってからは、長宗我部軍に押される一方となります。
翌年淡路5万石を与えられると、守り一辺倒となります。
1585年、脇坂安治が城主になりました。
羽柴秀吉が四国征伐を行い、長宗我部元親を降伏させました。
この時の功によって、仙石久秀には讃岐一国が与えられました。
淡路には脇坂安治が新たな領主として入りました。
脇坂安治は賤ヶ岳七本槍の中では最年長だったそうですが・・・
1585年は5月に1万石、8月に2万石、10月に3万石を与えられ絶好調でした。
淡路に入った脇坂安治は、洲本城に大改修を加えて総石垣の城としました。
1610年、廃城となりました。
脇坂安治が伊予国大洲へ加増されて移り、淡路は池田忠雄に与えられました。
しかし、当時まだ9歳だった池田忠
雄は、生まれ育った姫路城に居ました。
淡路島の統治は岩屋城、後に由良城が中心となり、洲本城は廃城となりました。
1631年、山下の洲本城が築かれました。
1615年、池田忠雄が跡継ぎのなくなった同族の岡山藩へ移りました。
代わって、大坂の陣の功により徳島藩の蜂須賀至鎮に淡路が与えられました。
淡路には蜂須賀家の筆頭家老・稲田示植が入り、統治しました。
稲田示植は1631年、それまで拠点としていた由良城を廃城としました。
そして洲本城跡の麓に、新たに山下の洲本城を築きました。
この時に由良の城下町ごと移転させており、由良引けと呼ばれています。
由良引けは、完了するまで4年がかりの大事業だったそうです。
徳島藩筆頭家老・稲田家による淡路島統治は、明治時代まで続きました。
所在地:兵庫県洲本市小路谷
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またね。