やっぱりっ!手遅れ
以前の記事にBARで仲良くなった男女8人で遊びに行った話を書きました。
後日その中の1人の女の子と4月の末に2人で飲みに行きました。
その時女の子がこんな事を言っていた。
「帰りに私達にタクシー代くれましたよね」
「酔っていて確認していませんでしたが朝見たら1万円ありました!」
「タクシー代と聞いたので2千円くらいかと思っていたのでビックリしました!」
「4人全員にあげたんですよね!」
「渡し過ぎじゃないですか?」
これが働いている社会人の女の子なら普通に思う事だと思う(^^)
しかしパパ活では食事をして交通費として1万円が当たり前だと思われている。
人は慣れから価値観や感覚は変わってしまいますよね。
パパ活を始めたばかりだった今の彼女が書いていたブログを見て他にも沢山の男性と会っている事を知った時に瞬時に思った事があった。
「彼女は変わらないで欲しい」
慣れとは恐ろしいもので今迄の自分の常識を非常識へと変えてしまう。
・移動はタクシーが当たり前
・高い食事が当たり前
・タクシー代は1万が当たり前
・出して貰って買って貰って当然
・お金貰うのって普通でしょ?
更にこの狂った感覚はどんどんとエスカレートして行く!
ベテランパパ活女子のブログを読んでいるとこんな感覚がヒシヒシと伝わってくる(^^)
でもそれは仕方がない事だと思う。
そうさせてしまう男側が悪いから。
1万円を貰うのは簡単だが自分で1万円を稼ぐのは大変な事だと昔は知っていたはず。
男性はその感覚を狂わすだけ狂わして飽きたらバイバイ。
麻痺してしまった女の子は現在の自分の感覚が普通だと思わせてくれる別の男性を探すしかない。
需要があるうちはまだいい。
でも後に女の子はすぐ気付くだろう。
「花の命は短過ぎる」
地に足をつけて自分を見失わなければ良いがそれは非常に難しい事だと思う。
既婚者が遊び感覚でパパ活をするには問題ないと思いますが独身の女の子は気掛かりですよね….
男は僕もそうですが皆この普通の感覚を持っている女の子が好きです。
しかしその女の子の感覚が狂ってしまうとまた別の正常な感覚の女の子に乗り換える。
女の子の感覚が狂うのに1年も要しない。
捨てられたら今度はこんな自分を正常と見てくれる男性にしか相手にされなくなる。
そしてまた捨てられたら更に次と…
特定の1人の男性に長期的に可愛がって貰っていればまだ良いが常に複数の男性と同時に関係を持てば持つほどこの狂ったループが加速していく。
パパ活とは100万円の宝くじが当たった!
くらいに思っておくべきだと思います(^^)
その一瞬は嬉しいが浪費すればすぐに無くなる金額。
そしてそれはそう何度も当たるものではないよねと。
女子の転落のシナリオとして
「キャバクラ→デリへル→ソープ」
とよく言われますがパパ活だって危険性は変わらないと思いますよ。
僕と交友のある神パパは愛人やパパ子にも贅沢はさせてあげるが大金は渡さない。
女の子の感覚を麻痺させないように生活出来るギリギリの金額を渡しているそうです。
しかしここまで女の子の事を考えてくれる男性はそうはいないでしょう。
増額交渉にすぐに応じたりおねだりされたら何でも買ってしまう。
こんな男性が多いと思います。
なのでパパ活女子には自分自身をしっかりと守って欲しいと思う。
手遅れにならないうちに…
現在の僕の大好きな彼女も正常な感覚のままでいて欲しいなあと切に願う。
まあ僕に彼女を狂わせるだけの甲斐性はありませんが(^^)
女の子は絶対に
「健気さ」=「謙虚」=「可愛さ」
男は健気な女の子が大好きですよ!
決して健気さを失わないようにね!(^^)
手遅れは、素敵に着こなしたいよね
イチロー氏が、野球選手として現役を引退することを発表してからおよそ1カ月余り。今は、プロ野球(NPB)、メジャーリーグ(MLB)ともに、本格的にシーズンが始まっており、筆者は球場で、もしくはテレビやネットで毎日のように試合を観戦している。
だが今シーズンは、開幕以降ずっと、イチロー氏が引退会見で発した言葉が頭に引っかかっている。それは、イチロー氏が、「野球の魅力は、どんなものでしょうか。また、イチロー選手がいない野球を、どう楽しめばいいでしょうか」という問いに対して答えたコメントだ。
■イチローが示した「野球界の問題」
この問いに対して、イチロー氏は2つの答えを挙げている。1つは「団体競技でありながら、個人競技である」ということ。野球という競技は、もちろんチームが勝つことが大事ではあるが、プロ選手である以上、選手個人として結果を残さなくては生き残れないということについて言及していた。
そして、もう1つは「現在の野球は、頭を使わなくてもできてしまうものになりつつある」ということ。イチロー氏は「野球は頭を使わないとできない競技だ」という持論を強調するために語っていたが、現在の野球は、人間の“頭の使い方”の次元を大きく超えた領域で行われていると言ってもいい。
いまや選手のプレー1つひとつが、データとして、あらゆる角度から分析されており、試合の際には、その分析結果を基に、野手の守備位置や投手の配球などが決められるようになっている。もちろん攻撃をする側も、データに基づいて構成された投手の配球を、さらにデータとして分析しており、さらに、裏をかいた攻めを仕掛ける。
もはや野球は(とくにMLBでは)、力と技のぶつかり合いだけではなく、ビッグデータの分析合戦的な側面もあると言ってもいいだろう。実際、NPBでも、明らかに“あらかじめデータ分析されていないとできないようなプレー”が少なからず見られるようになってきた。
投手の股下から、きれいにセンター前に抜けていくと思われた打球が、あらかじめ二塁ベースのすぐ後ろに守っていた二塁手に難なくキャッチされるシーンは、以前の野球では、まず見られないものだ。
データによってプレーが細かく分析され、その分析結果を基に、1つひとつのプレーが決まるようになったことで、選手たちは、その分析結果に従って投げ、打ち、守ることが求められるようになった。
データがプレーを支配することで、それは、ともすれば“頭を使わない”と見られることもある。それが、現在の“野球”という競技だ。
■「ビジネスの世界」でも同じことが起きている
「団体競技でありながら、個人競技である」という要素。そして「(データが支配するようになったがゆえに)頭を使わなくてもできてしまうものになりつつある」という要素。これらは“野球”という競技に限らず、現在のビジネスにも、そのまま当てはまる。
とくに海外企業では、もともと“個”のパフォーマンスがシビアに評価されるため、仮に企業として高い業績を上げていても、業績を上げられない人材は、ある意味容赦なく居場所を失うこととなる。まさに、どこの企業でも「団体競技でありながら、個人競技である」といえるような環境だ。
そして、AIブームと相まった形で、ある意味「頭を使わなくてもできてしまうものになりつつある」ように見える仕事も増えている。例えば営業現場であれば、これまで経験則でしか培うことができなかった、タイミングの見極め方や、提案すべき商材、受注確度の測り方などを、AIが編み出すようになっている。
マーケティング業務であれば、膨大なデータを収集、統合するなど、長い時間と手間を要する作業の実行をはじめ、見込み顧客や顧客のリアルタイムな行動に応じて、マーケティングのプロセスそのものを最適化させることも可能だ。
そして人事では、従業員に対して、より個別化された形で報酬やボーナスの提供ができるようになっていたり、離職しそうな社員のパターンを分析し、手遅れになる前に上司に伝えるような仕組みもできつつある。これらはすべて人間が「頭を使わないとできない」業務だと考えられていた。
こういった業務が、現在限りなくテクノロジーによって執り行われているわけだが、だからといって、仕事が「頭を使わなくてもできてしまう」わけではない。むしろ、ある面においては、より頭を使うようになっている。「頭を使わなくなった」のではなく、
れまでとは「頭の使い方が変わった」と言うべきだろう。
だが「頭の使い方が変わる」ということに対してイメージされているものが、日本とアメリカでは、大きく異なる。一言で言えば、アメリカ人はよりドライな方向に向かっているのに対し、日本人は、よりウェットな方向に向かっている。
平成28年版の情報通信白書によれば、日本では、AIの活用が一般化する時代において「コミュニケーション能力やコーチングなどの対人関係能力」など、いわゆる「人間力」が、より重要になると考えられている。
一方、アメリカでは「情報収集能力や課題解決能力、論理的思考などの業務遂行能力」といった、よりロジカルに実務を遂行していく能力が重要になると考えられており、転職の際に問われるスキルも、同じ傾向を見せている。
■イチローが気づかせてくれたこと
これは“野球”についても、同じことがいえるだろう。磨き上げた力と技術を、自らの経験則を踏まえた形で繰り出していくのではなく、「情報収集能力」や「論理的思考」を働かせ、自分のポジションに求められる「業務遂行能力」を忠実に発揮することが強く求められているのが現在の“野球”だ。
つまり「頭を使わなくてもできてしまうものになりつつある」のではなく「頭の使い方を変えなくてはいけない状況になりつつある」ということなのかもしれない。言い換えれば、求められるスキルが変化しているのだ。それは、ともすればイチロー氏が語ったように、つまらないと感じるかもしれない。
だが、これは時代の流れや、それに伴って進化するテクノロジーによって、競技の中身も徐々に変化してきた結果だともいえる。イチロー氏の「現在の野球は、頭を使わなくてもできてしまうものになりつつある」というコメントは、改めて“野球”という競技が変わったことに気づかせてくれたのだ。